A Pink Soft Organ| それはまるで彼(等)の中にある未知の内臓 JP/EN
こんばんは、
近頃、中国からの船便にはまっている金魚がお送りします。
なんてラジオみたいに始めてみる。
でも中国の船便は最近本当にお気に入り 面白い。
二ヶ月かかって中国から1つの箱がやってくる。たまに船のどこかで行方不明になる時もある。
次のブログは本当はもう少し後に違う事を書く予定だったけど、その前にある体験を記録しておこうかと思い立ったので、いつもより短い期間で更新することになった。
先週の日曜日の夕方、Puppies Puppies at XYZ Collectiveを見に行く。
同時開催のColorfu Weapon by Tan Kagami at The Steak House DOSKOIも見る。
Puppies Puppies at XYZ Collective
Puppies Puppies
Jan. 14, 2018 ~ Feb. 11, 2018
日曜日にある展示のオープニングに向かう。階段を降りて、階段をあがったときにはもう日は私から見えない場所へと移動していた。さよならも言わずにいなくなっても、それだけは戻ってくるとわかっているから私は空が好きだ。約束なんてしないでも絶対にさよならと言わないって。
In one evening, actually it was last Sunday, we walked to viist an openig of an art exhibition in Tokyo. With four people including me. Walked down the stairs, when we walked up the stairs, the sun was gone. There is no good bye, there is no an end. If there is, that is when the sun is exploded.
When a room is filled with baloons, like Martin Creed's Baloon Room, but by another artist with another concept or intention, would it be totally different thing? do you think, even if it is the same baloon filled room? I have a few answers to it but I still would like to wonder.
Shoes like the picture below is called Zori in Japanese. The one in the pictue is bequest of grandmother of the artist. It is a fancy one with pink and gold fabric with a traditional flower pattern, and it has two small rounded bells insearted in the heel of the Zori and when you walk it makes nice sounds. But it is only 20 cm in length, so even though our ancestors had smaller features of body, this shoes might be made for interior display.
その展示にはアーティストのお婆ちゃんの遺品の草履がある。
金色とピンク色の、そしてかかとの部分に鈴が2つづつ埋め込まれている、20cmほどの小さなもので、大事に使われていたのか、あまり履く機会がなかったのか、もしかしたら私のひいおばあさんの様にあまり地面を歩く機会のない生活をされていたのか、実用品というよりは装飾品だったのか、履き潰された様な印象はなく、比較的に綺麗な状態で
ただその丁寧な作りが見た目の新しさとは別に香りなき音なき「時」を醸し出している。
それは階段を下がった入り口前のスペースに、そこが玄関の様に、踏まれない様にある。
てっきりスペースの風船の中のどこかにあるのかなと思ったので私が気がついたのは、中から出てきた時だった。
How far can one item that is made by someone else or factory go and have important meaning in contemporary art installation? Like these shoes of grand mother of the artist that was a part of the installation. It is common to utilize and introduce varous objects into an exhibition. Would the object become something more than shoes when they become part of an art installation? Or is it still shoes? In contemporary art, especially in installation, sometimes it is not important matter if we made it or not. What does it mean do you think?
This exhibition is conposed with four different elements, two Japanese flags hanged at entrance to the space, a pair of Zori, baloon-filled room, and a writing.
Martin Creed のBaloonsといえば、私はまだ実際の展示を体感したことはないけれど、それにもっとも近い疑似体験としては、あるロンドン在住のカナダ人YouTubeブロガーの女性が、パートナーに連れられて展示を見に行った記録映像かもしれない。
青、水色、黄色、紫、黒、白、、色々な色のMartin Creed のバルーンルームがあるけれど、一色の選択の中でピンクは彼が意識してもしなくとも選べば特別な意味が存在すると思う。
今回のPuppies Puppies at XYZ Collectiveもピンクだった。
画して私はMartin Creed のBaloonsを体験する前に、それに影響を受けたアーティストの作品の中でそれを体験することになる。
どちらにしても「バルーンで埋め尽くされた空間」だということは同じではある。
ただこのPuppies Puppies at XYZ Collectiveの展示にはピンク以外の正しい、正しいという言葉があっているかはわからないけれど、他には色はなかったのではないかと思う。強いていうならピンクか、透明か。
なんとなくそのクリーミーな薄ピンク色はタバコを吸わない、まだ若い女性のやわかい体内や内臓を想像させる。市販向けにそのピンクの風船を作った人は、どうしてあの感じのピンクに行き着いたのかわからないけれど、私のイメージではあの色はどことなくVladimir Nabokovのロリータの様な、微妙に濃いピンクは性と連想するには少し未熟な、香りのない健康的な新鮮さや可愛らしさを出している感じがする。特に作品として大量に目の前にすると(それはそうだよね、風船だからね)そしてどこか現実から離れた夢見がちな印象の余る色でもある。
下駄と入り口の暖簾の様に下された2つの国旗も展示の一部だけど
この展示はバルーン、それか紙に印刷された詩の様なステートメントの様な文面によって完成する気がした。
ピンクのバルーンルームは柔らかい体内に取り込まれた感じがする。
子宮の中に包まれて出ようとするとそっと押し返される
個々のバルーンが私の動きを誘導する。私も個々のバルーンを1つづつ誘導する。
静電気という目に見えない力で風船が予告なしに破れる
少し離れた場所にいる人と目があう
いつもよりも距離を感じる
どこかで勝手に破れるのに分からは破りたくない
どこかで破れたバルーンも自分とつながっている
こういう展示は後々文面や写真で記録を見る事はできるけれど
経験はできない
そうすると残った保存記録(アーカイブ)、文章や映像や写真の記録に、どこまでの作品としての価値が既存するのか考える。
これはごく限られた少人数の必然や奇遇や偶然で集まった人のみが体験できる作品で、お花見で居合わせなければ見ることのできないその年の花の開花の様な
のちの保存記録(アーカイブ)はあくまで記録であり、作品を証明してくれる証拠で、でもそれは「作品」もしくはその一部、とは言い難い気がする。
作品は存在していたが存在していない事になる。
体験していない者も保存記録を体験する事はいつでもできることになる。
時が経つにつれて作品よりも記録が身近になる。
文面よりも、展示映像よりも、作品に近いのはそのアーティストと作品を体験した人々で、それらは皆期限ある存在
こんな風に感じるからこそ、先に述べた、私の中でもっとも本物に近いMartin Creedのバルーンの疑似体験は、正式なアーカイブではなく、それを体験した女性が片手に持っていたビデオカメラで撮影した体験記的ビデオの様に感じるのかもしれない。
例えばこんなビデオ、私がPuppies Puppies at XYZ Collectiveで携帯でとった未加工のインスタント動画。
いつか実際に私がMartin Creedのバルーン(ピンク)を経験する機会があったとしたら、それはPuppies Puppies at XYZ Collectiveでのそれと何か違う感じを受けるのだろうか。
(もちろん、デジャブだぁーという感覚以外に)
Martin Creedもまだまだ若いし、様々な要素が鮮度のいい感じが面白かった。
この同一の展示体験はXYZ Collectiveでしかできないけれど、似た様な新鮮な経験は様々なスペースで起こっている。
最近、とある知人が日付表記をアメリカ式ではなくイギリス式で記載していたので、
何か意図しているのかと尋ねると、そうでもない様子。
きっと無意識のうちに、そちらの方の文学や文化に影響されたのではないだろうかと思う。些細なことだけれど私にはなんとなく興味深い
興味深いのでそれ以上突っ込まないでおく。
SNSが何かを教えてくれるかもしれない。
周りの意見に惑わされるかもしれないし、何かを学ぶかもしれない。
昔の本が何かを教えてくれるかもしれない。
占いが何かを教えてくれるかもしれない。
アーカイブが何かを教えてくれるかもしれない。
でも例えば私には、それら全て以上に大事に、在る意味「贔屓」するものが一つだけある
私たちの目の前に在るものは嘘をつかない、
私は日々、それ等をしかりと見る様に、心を配れたらいいなと思う。
ただ生きている限り私たちに提示される在る一つの大事な本当である。
水曜日、東京では雨が降っていて、今夜はダンスレッスンがある。
最近ラインの星占いが当たりすぎて怖い。
Things are breakig down my heart
Something is tearing things around me
Things are hurting my inner softness
I don't want it from the beggining if something that has an end.
We shouldbn't have started if an end could be mentioned even i it is not serious.
Nothing that I need nor should be given. I don't want anything form that with an end could come.
I wish a disaster break me completely right now, instead of blue and foolish myself who cannot burn it off from this place.
Something I cannot, never, say in Japanese.